大庄屋家の調査その2

大庄屋家の調査の続き

大庄屋の家であれば、その家に伝わる古文書が多くあるものですが、残念なことにそれが全く見つかりません。ご本家の存在は、明治中期頃までの現地の記録では確認出来るのですが、明治38年の記録では既に存在が確認出来なくなっています。つまり、明治30年代頃に地元を離れてしまわれたものと思われます。

また、墓地は確認出来たのですが、明治初年に神道に変わって「奥津城」があるだけで、墓誌もありません。また、古い時代からの墓碑は処分されており、せっかく墓地が確認出来ながら、ここから情報を得ることは出来ません。

ただ、大庄屋だったくらいですので、郷土誌などの所々に大庄屋として名前が書かれているのですが、それだけでは情報不足です。

そこで、現時点で力を入れているのが他の大庄屋の日記です。
同じ郡に属する大庄屋は6人で、頻繁に大庄屋会合を開きながら職務を遂行しています。その6人の大庄屋の内、3人が日記を残しており、現在は活字化されて出版されています。

さらに、目的の大庄屋家の親類の家にも日記が残されており、これも活字化されています。

大庄屋の日記中には、職務上の公的な記事だけではなく、大庄屋同士の同僚としての私的な付き合いもあり、随所に目的の大庄屋家に関することが書かれており、結構細かなことも分かって参りました。親類の日記に至っては、尚更詳細です。

ただ、この3人の大庄屋日記と親類の日記は、それぞれ10巻、5巻、12巻、4巻の計31巻あり、合わせて2万ページを優に超える分量です。また、日記だけに、どこに目的の情報が得られるかの想定が出来ず、1行ずつ丹念に目を通していかなければなりません。

実に地味で膨大な作業になっています。

しかし、結構な数がある郷土誌関係とこれら日記の情報をまとめることで、家系調査の骨格が出来て参りました。

でも、もう一つ何かが足りない・・・
もっと決定的な史料が欲しいところで、それが現在の課題となっています。